便利が好きです、@SHARP_JP です。毎日だれかに機能をおすすめしている。これにはこういう機能があってこんな時に便利ですよ、とおすすめする。おすすめされた人が「なるほどたしかにその機能は便利だな」と納得して購入するのを促すのが、私の仕事である。お買い上げありがとうございました。
便利をもたらすのが機能である。つまり機能は、人が不便を抱えているという状況を前提にしている。ほんとうは機能によってそれまで認識していなかった不便に気づくという因果の逆ケースもあるけど、いずれにしろ家電をはじめとした消費財は、なにか具体的な負荷が生活にあって、その負荷を具体的に解消することを期待される。スマホもアプリもそうだろう。
その点では、鑑賞することや所有すること自体に価値が見出される、エンタメや芸術作品あるいは金融商品みたいなモノとは決定的に異なる。いや家電にだって所有や鑑賞の喜びはあるだろうと言われるかもしれないけど、家電のデザインはやっぱり用の美の延長であるべきだし、家電への愛着も結局は使うことを通してしか得られないのだから、どこまでいっても機能を通じた価値だと思う。
とにかく機能の側にとっては、生活に不便がないといけない。みなさんがいつも不便で困っていてほしいのだ。そうじゃないと機能(とそれを売る私)のつけいる隙がない。とはいえなにをもって不便とするかは、その人がなにを大事にして、なにを優先した生活を送るかによって、さまざまな視点がある。自給自足の生活を志すように、あえて不便を選んでいる、という人もいるだろう。
なにが言いたいかというと、私自身もただの生活者として、不便かそうじゃないかのラインがある。便利になるのは原則なんでもウェルカムだけど、ここを越えればオーバースペックだと判定する基準があったりする。だから時おり、自分が仕事でおすすめする機能の中に「それは要らんやろ」と感じるものも正直あるのだ。
もちろん大は小を兼ねるのだからオーバースペックでもよかろうと思いつつも、機能を備えれば備えるほどモノの値段が上がるのが世の常なわけで、過剰だと私が思う機能をおすすめする時、私の中にいる生活者の私が、チクチクと視線を突き刺してくる。
『なんでもない日』「昭和生まれだから」(オムスビ 著)
具体例をあげすぎると、私の仕事に支障やお叱りを来たすかもしれないので、ひとつだけにしようと思う。先日こんなことがあった。とある掃除機の新製品コンセプトを説明された時だった。
コードレス掃除機は充電式バッテリーを使用するのでコンセントをつなぐ必要がない。とても便利なモノだ。しかも思った以上に軽い。バッテリーを載せても片手でスイスイ掃除ができる。吸ったゴミはダストカップに圧縮してまとめられるので、集めたゴミもカップを外して即捨てることができる。たいへん便利なのだ。私も実際に生活で利用している。その便利さにけっこう満足している。
しかし新しいコードレス掃除機は、さらに便利を追究しようとしていた。使用後の掃除機をスタンドに収納するたびに、カップのゴミをスタンド内に集積させようとしたのだった。コードレス掃除機が吸ったゴミがカップに溜まった時、そのカップを外して中身をポイと捨てる手間を、わざわざ極限まで減らそうとしたのである。
その説明を受けた私は思わず「それはもはや怠惰じゃないの?」と口にしてしまった。私にとって、掃除を何度か繰り返したあとに溜まったゴミを捨てる行為は、負荷でも不便でもなかったからだ。むしろ家事をこなした事実を可視化する証拠として、溜まったゴミを満足げに眺める気持ちさえあったから、カップのゴミを自動で集めるという発想に、「なにもそこまで」と驚いてしまったのだ。
私はその自動ゴミ捨てに、このマンガの作者と同じ「もう十分ですから」という感情を抱いた。もちろん私見である。不便を検知したからこそ機能は生まれるのだ。私以外に一定数以上の不便を察知したからこそ、開発チームはその機能を実現したのだと思う。まもなくその新しい掃除機が発売される。怠惰か便利か、どちらに判定されるのか、その機能をおすすめしながら注意深く見守ろうと思っている。