
右手にスマホ、左手にコーヒー、@SHARP_JP です。スマホメーカーに勤めているので職業柄なのかもしれないが、映画やアニメを見ていても、漫画や小説を読んでいても、私は登場人物たちの通信手段が気になって仕方がない。
だれかと通信するシーンでなんのツールを使うのか、つまりそれはスマホなのかガラケーなのか、公衆電話なのか黒電話なのか、ファックスなのかメールなのか、その細部に目を凝らしては「この物語の時代はいつか」を、私はいちいち再確認してしまうのだ。
もちろんたいていの物語は、その時代設定が演出で示されるから、通信ツールも時代に添ったものが使われる。だがとりわけガラケーが登場すると、その設定と矛盾していないか、つい気になってしまう。それほど携帯電話からスマホにわたる変遷は目まぐるしくて、その時代を生きてきたわれわれは、電話の形状やアプリのインターフェースを目にしたとたん、それがいつの年のものだったか、瞬時に思い出せてしまう。
これは物語を作る人にとって大きな問題であろうことは容易に想像がつく。携帯電話があるかどうかは、謎やトリックの成立自体に関わるだろう。スマホで検索できるかどうかは世界の存亡に関わるし、メッセージアプリの違いはピンポイントで描ける時代を決定してしまう。写真をケータイで撮るという行為ですら、厳密に言えば2000年以降でないとありえないことなのだ。
10年とか20年にわたる長い連載をされているマンガ家の方など、当初の設定からどんどん社会とツールが変化するわけで、いったいどのように向き合っているのだろうか。特に恋愛モノなんて、固定電話とガラケーとスマホでは生まれる恋も変わってくるだろう。今世紀の永らくの恋を長らく描こうとすれば、膨大な細部への気がかりが発生するはずで、物語を現在進行形で編むという行為はほんとうに難しいものなのだろう。
高1の夏休み恋をした話(mao 著)
ケータイのアドレス。バキバキに割れたガラケー。新着メール0件。顔文字。返信はセンターに問い合わせ。電話をジップロックに入れてお風呂。ケータイメモ。この作品にも「ガラケー以降・スマホ以前」のごく短い期間をあらわすサインにあふれている。いま35歳前後の人なら「まさにそれ私」と悶絶するような、恋の思い出だろう。
逆に言えば、いや逆と言うのも変だけど、いまちょうど高校生の人たちなら「なんだこの辛気臭いコミュニケーションは」と思うかもしれない。またポケベルやそもそも携帯電話がなかった青春を過ごした大人は、待ち合わせの段取りすら、そのかんたんさに一言物申したくなるかもしれない。恋愛ひとつとっても、現代を生きる私たちは、通信ツールによって思い出が分断されているのだ。良くも悪くも。
とはいえ綺麗事を言わせてもらえば、通信手段はなんであれ、はじめての恋愛に臨む人間は本質的になにも変わらない。ここに描かれているように、若かりし頃はだれだって、自分の容姿から体臭まで気にするほど自意識過剰だし、どこかに恋愛の正解があると信じてやたらマニュアルを漁る。とにかくドギマギしていて、その恋がうまくいこうが失敗に終わろうが、相手の言動に一生の傷を負うことがよくある。このマンガの作者なら「フリスクは一度に2個食う」という行動様式こそ、苦くて甘いトラウマだろう。
私で言えば「顔についたまつ毛は願い事をとなえながら取る」がそれにあたる。そしていまでも、落ちたまつ毛を自分の顔に見つけるたび、私の心はちくりと痛むのだ。