事実は広告より生成り、 @SHARP_JP です。すべての物事にはイメージと実際の間にギャップがある。とかくわれわれの時間は「思ってたんとちがう…」の連続だ。ネットで買った洋服は似合わないし、注文したメニューはさほどおいしくない。財布の金は見積もったほど入っていた試しがないし、カードの引き落とし額は毎月思っていた以上の額になる。買った家電や家具がいざ搬入されたところ、予定していたスペースに入らないというような事態も「思ってたんとちがう」の一種であろう。
人間に対しても、私たちはすぐギャップを感じる。会えば平気で「思ってたイメージとちがいますね」などと勝手な失礼を言ってしまうし、関係性が深まったところの一挙一動に「こんな人だとは思わなかった」と勝手に幻滅するのだ。猛烈に仕事ができる人へ私生活の問題を嗅ぎつけようとしたり、あまりに品行方正な人にはなにかウラがあるにちがいないと勘繰ってしまうのも、われわれがギャップを前提に世界を見てしまう、「思ってたんとちがう」病といえるかもしれない。
私の仕事もある意味、社会に「思ってたんとちがう…」を振り撒く仕事だといえる。広告はそれを買わせようとするあまり、モノの実際を上回るイメージを、見る人に植えつける使命を帯びる。だから法律で実際の品質や性能よりも優れていると誤解させること(優良誤認といいます)を禁じているのだけれど、それにしたって品質や性能とは別のところで、広告は「それがあるあなたの生活」や「それを買ったあなた」を素敵に描こうとする。広告はどうしたって、いつもイメージと実際にギャップを抱えているのだ。
あるいは私のツイートだって、会社のイメージと会社の実際に、自らギャップを生もうとしている、と見ることはできる。私はSNSでいつもなんだかたのしそうにふるまう。それは、暗い顔をした人からモノは買わないだろうという単純な理由だからだが、実際の会社や職場はそんなお気楽なものでないことは、多くの人が知るところだろう。
ましてや私自身、そうたのしくない時もある。むしろしんどい。しんどい時でもそれを隠してのほほんとふるまうのは、私の職業的プライドだ。しかし、たのしそうにふるまう私は、広告的観点からみれば、会社を実際よりも優れてたのしそうにイメージさせる、優良誤認な存在にすぎないのかもしれない。
ギャップにはもちろん逆もある。いい方向へ作用するギャップもある。期待値を上回る経験やエピソードに遭遇することで、ポジティブな「思ってたんとちがう…」に気持ちが満ちることもあるだろう。実際がイメージを超えて、たしかな好印象となるケース。できることならいつも、自分や自社の製品に関しては、こっちの「思ってたんとちがう…」でありたいものである。
芽生えさせる女(眠井アヒル 著)
ポジティブな「思ってたんとちがう」は、とりわけ私たちの人間関係で、よく見られる反応だろう。人間に限れば、ギャップはたいてい、いい方向に作用するのではないか。というか私たちの恋愛は、その人となりにギャップを見出した時からしかはじまらないのでは、とさえ思うほどだ。つまりはこのマンガのとおりである。無愛想だと思っていた人がふいに弾けさせた笑顔を見て、私たちは平気で恋に落ちる。
たぶん「そこに作為がない」こそが、秘訣なのではないか。私たちは人にもモノにもついつい期待を寄せてしまう。勝手に高い期待値を用意することもあれば、妙な偏見から低い期待値を持つ場合もあるけど、その対象から予期しない、かつ作為のない反応が返ってきた時、私たちはそれをポジティブな「思ってたんとちがう」として受信するのだろうと、私の経験が教えてくれる。
そう考えると、作為にまみれて生み出される広告が、いかにポジティブな「思ってたんとちがう」を引き出すのが難しいか、とてもよくわかる。種から芽が出た時の、彼女のような笑顔を、私の仕事で作り出すのは至難の業だろう。私ができるのは、せいぜいひきつった笑顔だから、恋に落ちてもらうなんて、夢のまた夢である。というか「恋に落ちてもらう」という言い方がもう、作為でしかないのだ。