おつかれさまです、@SHARP_JP です。オレは勤労者だ。勤労者とは給料生活者のことだ。シンプルに言えば労働者である。オレは労働した時間をもとに対価をもらう、れっきとした労働者だ。だからオレの起きている時間は、ただの2色に塗り分けられる。労働に投じる時間と、それ以外の時間だ。私の時間とは便宜上、そういうことになっている。
オレは考える人だ。考える人とは頭を労働させる者だ。シンプルに言えば考えることが仕事である。オレはあれこれ考えることをもとにあれこれして成果物を作る、れっきとした労働者だ。だからオレの起きている時間は、のっぺりとした1色しかない。オレにはなにかを考えていない時間などない。私の時間とは事実上、そういうことだ。
つまり私の勤労は、常に軋轢を強いられる。労働とはなにか。時間とはなにか。労働の対価とは、単価と時間の掛け算で測り得るものなのか。ならばそもそも私は、考える時間まるごとが労働に投じた時間なのではないか。ていうか単価とは何だ。だれが決めたのか。私はいつもなんとなく、納得のいかなさをうっすら抱えながら、勤労に勤しむ。
しかし一方で、私の労働は不要不急のものではない。私が労働しなければ、会社が立ち行かなくなるわけではない。私が労働しなければ、売り上げが減じることもない。組織の運営がストップすることもない。悲しいほどに私の仕事は、会社の根幹を担うものではないのだ。長い目で見れば、私の仕事は会社に多くの価値をもたらすと信じてはいるが、日々の勤労という観点で見れば、私はまったく会社を支えるものではない。そう思っている。
世の中には、だれかがそれをしなければ事態がまったく進展しない仕事、というものがある。家事がそうだし、インフラを支える仕事がそうだ。家の掃除や洗濯はだれかがやらない限り1ミリも改善しない。街やマンションの清掃はだれかが担わなければ、驚くほどの速さで社会は立ち行かなくなるだろう。だれかがやらなければ生活や社会が維持できない種類の仕事が、私たちの周囲には膨大にある。みんなそのことを、ほんとうは知っているはずだ。
そして勤労感謝の日とは、社会や生活を粛々と支える勤労を担う人にこそ、感謝を捧げる日だと思っている。
ぽんすけ成長日記(ひとり 著)
とはいえ。とはいえだ。労働は疲れる。あらゆる勤労は労いを必要とする。休みたい。自分の時間を自分のためにのみ使いたい。できれば週の半分はそうしたい。
その叫びがこれでもかと叫ばれた作品である。感謝はわかった。労働の尊さもわかる。わかったから、ちょっと休みたい。休ませてくれ。そこに共感するのは私だけではないはずだ。
なにかをやらねばならぬから、そこに自分の時間を投じるすべての勤労者へ。おつかれさま。勤労感謝の日の翌週に、心の底からそう思います。