今年もお世話になった人にはお世話になりました、@SHARP_JP です。お世話になってない人も、巡り巡ってお世話になっていたかもしれません。ありがとうございました。まもなく2023年も終わろうとしている。今にはじまったことではないけれど、今年もあっという間だった。しかし今年は、いつもよりツイートが少なかったかもしれない。数えたわけではないが、自分でツイートしようとした回数はずいぶん減った感覚がある。
別に仕事をさぼったわけではない(私は企業のツイートや宣伝をするのが仕事である)むしろ仕事はがんばった方だ。自分の書籍を出したほどである。目に見える成果というものが、例年よりむしろ多いくらいの年だ。しかしツイートは少なかった。自分の働く会社の宣伝も、自分の周囲で起こる出来事も、自分のうずまく感情も、折にふれて吐露する気がなかなか起こらなかった。その理由は年の瀬のいま、くっきりわかる。
今年はずっと、うしろめたかったのだ。うしろめたかったと言うと、私がその気持ちを自分の内に抱えていたように聞こえるが、実際はちょっとちがう。私が生きる日々を、毎日の一挙手一投足を、毎分毎秒の思考を、じっとうしろめたく眺める自分に俯瞰されていた、というのが実態に近い。私は、私をうしろめたく見てくる背後の自分に、つねに苛まれていた。自分が仕事に邁進することも、自分の生活を謳歌することも、自分なりの幸福を追求することも、うしろめたい視線が自分の両手を突き刺して、なにをやっても手放しで行う気になれなかったのだ。だからツイートがずいぶん減ってしまった。
「なんでこんなことに」という、悲しい出来事を目にし続けた一年だった。もう見たくない、勘弁してくれとどれだけ願おうとも、自分の理解を超える映像が日々更新されながら、地の距離を飛び越え、私の手のひらに映り込んでくる。どこか遠い世界の出来事とはとうてい思えない解像度で、連日ニュースが報じられる。人が人を殺すという何度考えても理解がおよばない、私にとっては現実離れしすぎた事実と、その事実が離れた場所に連綿と遅滞なく届くというバグった現実に、私は自分のうしろめたさを客観視する、もうひとりの私を確立することでしか立ち向かえなかった。
モノを売る。儲ける。モノを作る。宣伝する。感情を発する。受信する。共感を募る。感謝する。腹を立てる。モノ申す。おいしいものを食べる。モノを買う。本を読む。しゃべる。快適を追求する。幸福を欲する。私はなにをやるにも、そこにある「うしろめたさ」を指差し確認しながら遂行することで、なにをやっても無駄という虚無にギリギリ向かい合ったように思う。日当たりのよい机で文章を書き継ごうとするいまも、私の背後でななめ上から後ろめたさを投じてくる、セカンド自分がじっと私を見ている。
心の治療費(ひとり 著)
セカンド自分という存在も、かつては自身を冷静に捉える知性として歓迎されたはずだったけど、いまや私にとって、ファースト自分であるところの私を、うしろめたさという視線でしばりつける監視員だ。私はここから脱出する方法を、ニヒリズム以外に知らない。なにもかもに虚無を見出せば、うしろめたさは消える。そこに甘美さすら感じそうになる自分がいる。それがこわい。
しかしそこで踏ん張ろうとする大人もいる。このマンガにも、虚無に爪先立ちでふんばろうとする人がいた。ほんの少し、うしろめたさから救われた気がした。読めてよかった、と思った。
私たちはもう、うしろめたさから逃れられない時代に突入したのかもしれない。もしそうなら、新しい年はうしろめたさをどう飼い慣らすかを考える日常になるだろう。来年はせめて虚無へのふんばりを励ます言葉や物語に出会えればと、ささやかながらにふんばる気持ちが湧いている。
みなさま、よいお年を。どうか。どうか。世界中が、よいお年を。