細々と生きながらえてます、@SHARP_JP です。最近ふと「はいばん」という現象はほぼ絶滅したのではないか、と思ったのだ。はいばんとひらがなで書いたのは、廃盤とか廃番とか廃版とか、同音の漢字がいろいろあるからである。絶滅は言い過ぎだとしても、はいばんの影響はずいぶん見かけることがなくなった気がする。買う側にとって「製造が中止されて手に入らない」に直面することは、むかしよりずっと少なくなったのではないか。
廃盤とはそのレコードやCDが作られなくなること。廃版とはその書籍の印刷がされなくなること。どっちも欲しい人には「探しても見つからない」という状況をもたらす。しかし廃盤はサブスクで、廃版は電子書籍によって、物質性にこだわらなければ「どうしても手に入らない」事態はそうそう起こることではなくなった。もちろんいまだデータになっていない音楽や書籍が山ほどあるのも知っているけど、そしてそれこそが私の部屋が片付かない原因でもあるのだけど、それにしたって聴けない/読めない絶望にうちひしがれることにくらべれば、ずいぶんと贅沢な悩みになったはずだ。
ただし廃番は別である。型番がつけられたすべての工業製品はいまだに「なくなったらおわり」という危機に晒され続けている。以降の製造を行わないという突然の判断は、企業の中であらゆる方面の損益を計測してクールになされる。しかし廃番の判断はそれを求める人がゼロになったからではない。求める人がかぎりなく少なくなって、製造し続けることがわりにあわなくなっただけである。だから廃番には常に、探しても見つからないとオロオロする迷子を発生させてしまう。
『チャレンジ』49日目「1年越しの再会」(かんぱち 著)
その迷子を目撃してしまうのが、私である。買おうと思ったらなかった。壊れたから同じものがほしいのに。愛用の機能が載った製品がない。なんとか修理できないか。私は日々、廃番で迷子になった人の言に直面する。私は日々、なすすべがないことを神妙に謝る。そして私はいつも、どんなモノにも愛用者が少なくともひとり以上いる、というあたりまえの事実を理解するのだ。
あらゆるモノゴトにおいて、需要やファンがゼロになることはたぶんありえないのだろう。あなたの関わった製品も、あなたがひらめいたサービスも、あなたが人知れず生み出した作品も、それを必要とする人がゼロになるという可能性は、限りなくゼロに近いと私は思っている。
しかし一度はいばんになったモノが復活することはめったにない。一度なくしたモノが復刻されることはほとんどない。クールになされた判断はクールな権威を失いたくないから、覆されることがまずないのだ。しかしごくまれに例外が起こる。一縷の望みが叶えられた時の、ごくごく一部の人の喜びはこのマンガのとおりだろう。おおげさに感じるかもしれないが、探しても見つからなかったモノに再会する喜びは、それを必要とする人にとって計り知れないのだ。できれば私はそういう再会を増やす仕事をしたいのだが、なかなか難しくていつも歯噛みしている。