繰り返しが平気です、@SHARP_JP です。矛盾して聞こえるかもしれないけれど、起伏に富まない表現が好きだ。たいていのコンテンツと呼ばれるものは、起伏に富む。起伏こそが物語のダイナミックな経過を示すのだから、そもそも人は起伏におもしろさを感じる。平坦なレールを一直線に進むジェットコースターなんて、あってもだれも乗らないだろう。そもそもそれは、ジェットコースターと呼べるのかすら怪しい。だから繰り返しとか起伏に富まないという形容は、たいていはつまらなさや退屈さを表すために使われる。
しかし世界には、そういう平坦なジェットコースターのような作品がある。代わり映えのしないだれかの人生を長々と綴る小説や、取るに足らない日常を延々と記録する日記文学なんかが、それに当てはまると思う。なんども同じ時間や人生を繰り返す、ループもののSFもたくさんあるけど、あれはループを抜け出す方法を見つけることがダイナミックに描かれるので、平坦なジェットコースターとは言えない。私が好むのは、もっと淡々と繰り返される、地味で恬淡な表現だ。
繰り返しとか起伏に富まない表現は、音楽にけっこう存在する。そもそもダンスミュージックや多くの民族音楽の構造が繰り返しをベースにするものだから、そういう音楽を好む人は案外、起伏のなさに慣れ親しんでいるのかもしれない。もともと音楽にはミニマルという概念があって、極限まで音楽を構成する要素をそぎ落とし、簡素な素材を繰り返すことで、没入感を追求したり、あるいは小さな音のズレや微妙な差異を楽しむジャンルを確立させてきた。私の繰り返しや起伏のなさ好きは、たぶんここから来ている。
平坦な繰り返しや起伏に富まない表現は、それに根気よくつきあっていくと、退屈の逆襲とでもいうべきポイントが訪れる時がある。もちろんそれはカタルシスやダイナミズムとは無縁の、地味で静かな感動だけど、繰り返しと時間を経た人間の強度を追体験するような瞬間だ。私はその強度を味わいたくて、起伏の富まない表現を摂取する。そしてその行為は、地味で変わり映えのない生活と対峙することに、どこか通ずる気がしている。
ぼくの宇宙に光る星(みちこ 著)
いうまでもないことだが、私たちの生活はたいてい地味だ。仕事はつまらないし、学校は退屈だし、家事は見えない部分で回っている。そのパッとしなさは、宇宙に行っても変わらないのだろう。どこで過ごそうとも、生活という時間は繰り返しを要求し、すぐに平坦になろうとする。
その平坦な時間に対峙する方法は、おそらく2種類しかない。繰り返しを愛するか、別の起伏に富む時間を獲得するか、だろう。幸いどちらも、私たちはかんたんに選ぶことができる。後者にはスマホが、ネットフリックスが、われわれにはある。それどころか前者なんか、なんにも要らない。すべては気の持ちよう、自分次第だ。そして私は、その自分次第にこそ、生活のダイナミックさを見出している。繰り返しや起伏の富まなさは見え方であって、退屈の原因ではないのだ。