コピーライター(自称)、@SHARP_JP です。世界最高や世界初こそが至高、という世界で働いている。世界というより、業界といった方が正確かもしれない。ソフトにしろ、ハードにしろ、なんらかの技術的なあれこれを開発し、一定の品質を保った上で、たくさん作って流通させることを競う業界である。会社ごとに聖書があるとすれば、「はじめに技術ありき」というような言葉が書かれてそうな企業が、やんややんやとしのぎを削る世界だ。
いうまでもなく私たちの生活は、どこかの企業が開発したテクノロジーで、その便利さを支えられている。スマホも冷蔵庫も自動車も、技術こそが正義とされる世界から生まれてきた。たいていそれらは一度手にすれば、なかったころが思い出せなくなるような、超便利な必需品だろう。そんな必需品を世に送り出す一端に自分が関わる誇らしさは、技術に一切関わらずにのうのうと働く私の中にさえ、少しはある。
ただしそこは、似たような思想で似たような技術を採用し似たような製品を競い合う世界でもある。人類の必需品であるのだから、そこで大きく商売しようと参入者が増えるのも当然だろう。とにかくあっちよりこっちの方が、ある条件においては世界最高だと主張しあうハメになりがちだ。世界最高はいつしか、人類を更新するような画期的な技術を宣言する高らかな最高ではなく、微細な優劣を主張するための卑近な最高が目指されるようになる。
だから、あっちよりこっちの方がちょっと見やすいとか、ちょっと速いとか、ちょっと省エネといった、現時点でちょっとだけ世界最高が次々と生み出されるのだ。それ自体は悪いことではない。そういう「ちょっとだけ世界最高」によって、われわれの生活はちょっとだけ便利になり、ちょっとだけ改善されていくのだから。
問題はそういう技術や製品が実現した「ちょっとだけ世界最高」を、宣伝というかたちで世間の人々に喧伝する段階にある。つまりは私の仕事の領域に、世界最高をインフレ化させ、世界最高という言葉を陳腐にした要因があるのだろう。そもそも最高やNo.1とは、次に追い抜かれるまでの、期間限定の状態なのだ。
だから広告で目にする世界最高は、文字通りの意味に受け取られない、いまや信用ならないワードなのだろう。あっちよりこっちの方が瞬間風速的に勝った要素のみを抽出し、その小さな事実を盛大に吹聴するために、世界最高はこすってこすって使われてきた。そのおおげさな世界最高にうんざりさせられてきた経験が、世界最高の不信を呼んでいるのかもしれない。
私たちはいまさら「最高〜」と呟かれたSNSを見ても、その人がえもいわれぬ最高の時間を過ごしているとは思わないように、企業も広告で世界最高を口にした途端、話半分の目を世間から向けられるだけなのだ。
焼きたて(小山コータロー 著)
先日とある美術館に保管されている、自分が働く会社の古いCM映像を見せてもらう機会があった。白黒で音もモノラルな、私が生まれるよりずっと前の古ぼけたコマーシャルである。
驚いたことに白黒の映像の中では、我が社のテレビの画質が世界最高と謳っていた。私がさんざん仕事で担当してきたテレビの広告で繰り返したメッセージと、まったく同じ言葉、同じ構造だった。プロの広告屋さんや私が必死で考えてきた企画は、すでにずっと前から作られていたのだ。それどころか私は、何度も何度も焼き直し、既視感のある広告をループさせてきた。なんだ私は昔の人がやった仕事を自分が成し遂げたのように感じていたのかと、ほとほと呆れてしまった。
もちろんテレビの性能は進化する。しかしそれはちょっとずつしか、進化しない。毎年、去年よりちょっとだけキレイに映るようになったテレビを、私は「世界最高(がちょっとだけ更新された)」のカッコ部分を隠して、まるで画期的な最高が誕生したかのように宣伝してきた。私はテレビを売りたいのではなく、世界最高という印象をバラマキたかったのかもしれない。
そう考えると、このマンガのように焼きたてという概念を売る人のことを、私は笑えなくなってくる。焼きたてですよと呼び込みするおじさんと、期間限定の世界最高を最高〜と吹聴する私は、ほとんど違いがないのかもしれない。私はただ、世界最高という概念だけを広告してきたのだ。