ぽつんと @SHARP_JP です。タバコをやめてずいぶん経つ。吸っていた銘柄がいまいくらで売られているのかわからなくなってしまった。きっかけはひどい風邪のあと、そういえば2週間ほどタバコを吸っていないことに気づき、そのまま吸わないでいてみようと思ったことだった。だから厳密にはやめたと言えないのかもしれない。次のタバコに手を伸ばすのを躊躇したまま、ずいぶんと月日が経った。
幸運なことにどうしても我慢できないというようなこともなかったし、反動で猛烈な嫌煙勢になったということもない。優雅に煙をぷかりとはく人を見たら、うっすらいいなと感じることはある。飲みに行こうという友人がタバコを吸うなら、入る店は吸える場所があった方がいいだろうなと考える。我ながら我の禁煙は、いい着地をしたと思う。
それにしても吸わなくなってよかったことはある。どこに行こうが、どこにいようが、常に「ここは吸えるか吸えないか」を考える必要がなくなった。その点は大きい。自分が存在する空間の安全、たのしさや美しさを認識する前に、タバコが吸えるかどうかが気になってしまうのは、どうにもしんどかった。だからやめた時、世界を眺める分厚いレイヤーをひとつ取り払えたようで、それはなかなか清々しいものだった。
タバコ刑事!(越華くは 著)
マスク社会になり少しうやむやになった気もするものの、タバコを吸うことに対する風当たりは強くなる一方だ。物理的にタバコが存在する余地はどんどんなくなっている。吸う人にとっても吸わない人にとっても、それはもはや時代の流れとしか称せない、社会の不可逆な変化だけれど、吸うのをやめた人間こそ、かつての頃をよく思い出すのではないか。
私がそれを思い出すのはきまって、ひとりでタバコを吸っていた光景だ。かつての私はどこに行っても、どこにいても、ひとりでいる自分を見られることに恐れ、そのくせひとりになりたいと切望していた。そんな自分に、タバコは便利な道具だった。
音楽がかかる場所だろうが、飲み食いをする場所であろうが、働くオフィスであろうが、とにかく多勢の人がいる中で、孤独に見られたくない時も、孤独になりたい時も、タバコを吸うという行為は私にほんの少し、救いをもたらしてくれた。あの頃のタバコは、私の手持ち無沙汰と持て余した自意識に寄り添ってくれていたのだと、いまになって思う。
そう考えると、スマホの存在はあらためて大きいのだろう。いまやスマホは万人の手持ち無沙汰と自意識と、そして少しの孤独に処方する。かつてタバコが担ってくれた隙間をスマホが埋めているのなら、ここ15年くらいは、禁煙という選択をスマホの普及が加速させているのかもしれない。少なくとも私はスマホがなければ、タバコをやめるのがもっと難しかったのではないかと考えている。