シャープさんの寸評恐れ入りますすぐ上書きしてしまう

コミチ・コミックス

どんくさい方です、@SHARP_JP です。いくらどんくさい私でも、どんくさいなりにコツコツやればたいていのことはそれなりに上達する。上達すると人間は図に乗るのか、できなかった頃の自分を脇にどけ、できるようになった自分をデフォルトの私として認識してしまう。建物が建て替わると、とたんに前の建物の姿を思い出せなくなるように、できなかった「以前の私」を、できる「現在の私」はすっかり忘れてしまうのだ。


たとえばどんくさい私は、アスリートがめざましい記録を続々と更新する様子や、人間の身体の限界を拡張するようなパフォーマンスを目にすると、なにがなんだかわからなくて呆気にとられる。その後の選手のインタビューで、本人の口からいかに血の滲むような努力と練習をしてきたかが語られて、ようやく私は「そうかこれも上達の先にある現象なのか」と我に帰るのだ。そしてふと、上達に上達を重ねて高みに登頂するような人たちは、できなかった自分を覚えているのだろうか、と考えてしまう。


どんくさい私にとってはただの想像でしかないけれど、未踏の場所まで到達できる稀有な人たちは、各地点で「それができる自分」と「それができない自分」を自由に行き来できるのではないか。ふつうの人が覚えていられないような微細な身体の差異を知覚し、できる自分とできない自分を早送りしたり早戻ししなければ見えてこない、遥かな先の上達があるのではないか。


そうでないと、輝かしい結果を残した後でさえ自分の努力を内省し、静かに行程を分析する、あの選手たちの独特な冷静さや謙虚さはありえないと思うのだ。私にはそれがまるで未来が過去を包むように、できるようになった自分ができなかった自分を優しく認めてあげているように見える。


私たちは、すぐ自分を上書きする。できるようになるとつい、できなかった自分を軽んじて、不要だと消去してしまう。だけど本来、できなかった自分とできるようになった自分は地続きなはずで、その接続を意識することこそが、上達をさらに上へ上へと導くものなのかもしれない。そういうことを夜ごとテレビに映る、輝かしいのに静かな人たちを見て思ったのでした。



バイト初日から無茶振りされて詰んだ話(植月えみり 著)


私たちがする上達は、なにも輝かしい舞台だけで披露されるものではない。自分のために作るただの自炊もそうだし、私がいま書いているこういう文章も、スマホで黙々と進めるゲームだって、上達の余地にあふれている。この漫画のようなバイトの初日など、まさに上達のスタートポイントだ。


すべてができないから始まる仕事の初日なんて想像しただけで緊張する一方、ダラダラ仕事を続けてきた私は、おどろくほど今の仕事を始めた時の自分を思い出すことができない。まちがいなくなにもできなかった自分なのに、なにもできないという状態をうまく再現できないのだ。調子に乗っているとも言えるし、それなりにがんばってきた自分に対しても、不遜な態度だとも思う。


だから研修の札をつけた彼女に「がんばってね」と声をかけたお客さんは、きっとできなかった自分を覚えている人なのだろう。当たり前のことだけど、できなかった自分を思い出せる人は、できない人のことをいつでも想像できる人なのだ。それは他者へのやさしさだけではなくて、自分にやさしい内省をも含んでいるから、私にはコワモテのお兄さんが、テレビに映るトップアスリートとどこか重なって見えるのである。