おごりおごられ生きてきました、@SHARP_JP です。私が言うまでもなく、世界は答えのない問題が満載だ。世界中から届くニュースはいつだって未来を覆うように陰鬱で、いったい私になにができるのか立ち尽くしてしまう。企業のサイトや広告でさかんに謳われるSDGsも、繰り返されるうちに言葉は質量を失って、もはやメロディーにしか聞こえないが、そこに書かれてある内容はすべて答えのない問題だ。ハミングしている場合ではない。待ったなしと警告されながら、私たちはそういう答えのない問題を抱えて暮らしている。
「主語をでかくして語るな」はわれわれが波風を立てることなくSNSを生き抜くための教訓のひとつだけれど、同様に「目的語をでかくするな」も、日々を私たちが立ち尽くすことなく暮らすためのコツかもしれない。環境を、未来を、平和を、政治を、と目的語を大きく考えれば考えるほど、罪悪感と虚無が掻き立てられ、私たちは消極的な思考のループにはまってしまう。とにかく明日も生きるためには、大きな目的語から目を逸らすしかない。
と、思われがちだが、現実はそうでもない。大きくて社会的な目的語どころか、矮小で卑近な目的語にさえ、私たちはどうすべきなのか、その答えを見つけることができない。職場、友人、家族といった、小さな人間関係の中でだって、あの時どうすれば正解だったのか、答えなんか見つかりっこないのに、私たちは答え合わせをしようとして後悔ばかりしている。少なくとも私は、している。
いま私は、少なくとも私は、と書き加えた。「私たち」と主語がでかくなりすぎたかもと、私は心配になったのだ。文章でさえ、書いているそばから、私は答えのない問題にすでに後悔している。とにかく答えのない問題は、大なり小なり、そこかしこにある。
男女のデート〜お会計の攻防と実況の古舘一郎〜(たべあずちゃん 著)
つい最近も「男性はデート代をおごるべきという女性の意見」に議論が噴出した。男性がデート、とりわけはじめてのデートをおごるべきか問題への賛否両論は、またかよと感じるくらいに繰り返されてきたと思う。ひょっとしたらデートした回数よりも、デートおごるか割り勘か論争を見た回数が多い人もいるのではないか。
つまりこんなところにも、答えのない問題が横たわっている。このマンガを読めば、おごろうがおごられようが、割り勘にしようが、そこに至るまでだけでも、膨大な逡巡と選択、そしてそれへの後悔が発生することがよくわかる。さらにいえば、その逡巡と選択と後悔すら、時代の変遷や価値観の成熟やその時の所持金といった変数によって容易に入れ替わるのだから、答えのない問題どころか、答えが逃げる問題に見えてくる。
私なんかここはひとつ「デートは誘った側が店でいったんおごり、その後おごられた側が任意の金額を返す」ということで社会的なコンセンサスを取れないものだろうかと思うのだけど、どうなのだろう。答えのない問題はいったん保留の策を講じようと考えてしまうのは、私がデートするしないという切実な土俵から降りたせいかもしれない。
しかし、答えのない問題は目を逸らすのではなく、保留して考えつづけることにこそ、人間の知性が必要とされることに、私はうすうす気づいている。そうやってかわしながら腰を据えるような、いいかげんに見えるふるまいからしか、答えのない問題の端緒につけないのではないかと、私はいまさらながらに思っているのだ。