文字の精、@SHARP_JP です。文字にまみれた人生を送ってきた。別に読書量を誇りたいとか、教養の高さを匂わせたいとかいう意図はない。ただ情報を文字で摂取するのが昔から性に合っていて、それが好きなのだ。子どものころからジュースのラベルをじっと読む癖があったし、今でも手にしたペットボトルの成分表などに見入ってしまう。台所で調味料やカップラーメンの注意書きを読んでいたら鍋が吹きこぼれて危なかった、なんて茶飯事である。
書かれた意味や背景を読み取るという目的を引き剥がしたとしても、そこに連なる文字を読むのが苦にならない性質は、大人になったいまも案外役に立っている気がする。さっぱり意味のわからない哲学書や技術仕様書なんかも、その入り口から逃げ出すことなく、不明瞭な森にためらうことなく分け入ることができるし、その後もけっこう歩き続けることができる。もちろん、そうしろと言われた場合だが。
また私が主たる仕事としている広告においても、文字への耐性は意外なほどに活躍する。みなさんもご存知であろう、広告やカタログの欄外、あるいは取説のほとんど、そしてウェブサイトの下部にみっしり小さな文字で羅列される、あの注釈文を書いたり読んだりすることに、私は消耗しないのだ。
誤解を避けるとか責任を回避するためという、ただ後ろ向きな1点の目的ゆえに、ひたすら増殖し、級数を下げ続ける注釈文は、「読まれる」という文字の存在証明を放棄している。そこは本来、読むのも書くのも苦痛でしかない場所だろう。しかし私は、ただ文字を目で追うのが好きなのだ。読みやすさが放棄された文章にも、驚くほどの耐性を発揮する。
楽しいとまでは言えないけれど、一顧だにされないであろう文字を追うことが、私は嫌いではない。それは知らないことを知りたいというような、知的好奇心の類でもないと思う。昔で言うところの「活字中毒」であるのは確かだが、生活する空間のすみっこの方に文字の羅列を発見し、読解するでもなく無視するでもなく「あーあるな」と知覚することが、私にはどこか心の安らぎになるのだ。
ヒゲ母ちゃんの育児漫画(ヤマモト喜怒 著)
字を読むたのしさは、思っているより原始的な快楽なのかもしれない。このマンガでは、字を読むという入り口に立った娘さんの様子が描かれている。私は人間の認知とか発達の過程をくわしく知らないけれど、文字は意味より先に音が紐づくのだろうか。まだ文字の連なりと意味がうまく結びつかなくとも、文字と音の対応が理解できているのなら、この娘さんのように眼に映る文字を次々と口に出すたのしさもよく理解できる。
一方でまた私たちは、その原始に戻ることはできないのだ。文字列はそれぞれ固有の意味を持つことをひとたび理解してしまえば、眼に入る文字はすべて意味として知覚されてしまう。もちろんそれこそ、人類が文字を発明し脈々と使い続ける理由なのだが、一度更新されるとぜったいに元に戻れないところを見ると、ほんとうはものすごい脳のアップデートなのだろう。
私たちはどれほど難解な文章であっても、文字の連なりごとには意味が入ってくる。どれほど文字をただの柄や音符のように見つめようとしても、文字が有する意味を決して頭から排除できない。だから私が読まれない文章を見つけて、読むでもなく見ようとする癖は、文字を読む前の原始的な快楽へのあこがれに、どこか繋がっているような気がする。