
仕事は順調?どっかへ遊びに行った?ストレス発散できてる?だいじょうぶ?@SHARP_JPです。息を潜めるような、息が詰まるような、うっすら不穏な日々がもうずいぶん続いている。まさか、終電を懐かしいと思うようになるなんて、想像もしなかった。
泥のように疲れ切った身体でよろよろと乗る電車。酔っていないと言い張りながらゆらゆらと乗り込む電車。心もとない財布の中身に慄きつつ必死に駅へ走る深夜。別れの名残惜しさを引っ張るだけ引っ張った末に、手を振る両者。
終電は皆が皆、行きがかり上の理由や、やむにやまれない事情を抱えて乗りこむ電車だ。その終電に最後に乗ったのは、いったいいつのことか。気づけば終電という言葉そのものが、どこか別の国の風習のようにも感じられて、不思議な気持ちになってしまう。
そもそも私たちは「遅くなる」ということがめっきり減ったのだ。だれかと会って飲んだり食べたりすることも、積み上がった仕事を職場で片付けることも、極端に減った。おしゃべりに夢中で気づけば夜が更けていたという夜なんて、もう来ないのかもしれない。たとえ更ける夜に気がついてもそこは家だから、私たちは「行って帰ってくる」ことすら、貴重な行動になりつつあるのだろう。
「行って帰ってくる」のが神話の定型ならば、ここ一年の私たちは、圧倒的に物語が不足した人生を送っている。行って、いろいろあって、終電に乗って帰ってくることのない暮らしは、やはり起伏の欠いた、のっぺりしたものなのかもしれない。
それは仕方のないことだし、それはそれで健康的だとも言えるし、それも案外平気だと思う自分がいるけど、やっぱり時々さみしいなと感じることもあって、そういう時はいつも、終電に乗って帰る自分を思い出す。なぜか決まって、ひとりで帰る道すがらを思い出す。
なくなってさみしく感じるのが、みんなでガヤガヤした時間ではなくて、ひとり終電で帰る時間なのは、どうしてなのか。考えるたびに、「帰れなくなるぞ」と無慈悲に楽しい時間を終了させる、あの終電という存在を懐かしいと思ってしまうのだ。
別れとか出会いとか(まのゆうすけ 著)
もちろん、私たちは終電を逃すこともある。いや正確に言うと、かつての私たちは終電をたびたび逃してきた。あるいは寝過ごすことも。私だって、終電を逃し途方に暮れたこともある。終電の新幹線を寝過ごして、いくつもの県をまたいだこともある。そんな失敗すら、懐かしい気持ちになる。
だけどもう私たちは、終電と距離をあけた日常を歩んでいる。たぶんまだしばらくは、終電を懐かしむ不思議な日々が続くのだろう。
ただ一抹の希望があるとすれば、このマンガの最後に描かれているように、明るい時間のわれわれは、着々と地に足のついた生活を確立しつつあることだ。マスクで穏やかに集まり、季節の行事を心待ちにし、花は咲く。ニューノーマルなんてワードではこぼれ落ちそうな小さなことかもしれないけど、それは「なんかいいなと思う」ことだ。
みんな、元気でやってるのかい?