フォロイーとかインタビュイーという時のイーに慣れない、@SHARP_JP です。期せずしてツイートが話題になると、それを取材したいという人が現れて、インタビューされることがある。ネットで評判の話題をテレビで紹介するにあたり、発言した本人を直撃というケースが多い。ツイートをそのまま取り上げて、そのツイートに対する市井の反応をいくつかピックアップしただけの、それは果たしてメディアと呼べるのかと不安になる記事がネットに並ぶ中、独自取材する労力を付加してニュースの価値を提供しようとする姿勢は、むしろ誠実にさえ思える。だからいつも、取材の申し出はありがたいことだと思っている。
ただし複数のインタビューを受けると、質問がほとんど同じだということに早々と気づかされることになる。つまりは「なんでそんなことをしたんですか?」だ。期せずしてツイートが話題になると、私は「あなたがした行為の裏にある意図をいまここで話せ」という要請を、違う人からたて続けに受けることになる。もちろん私はまがりなりにも社会人だし、ましてや仕事をする上で行った言動であるから、「意図なんかない」ということを、それなりにオブラートに包んだうえで、「さも意図がありそうでないのだ」と判をつくように答える。
意図がないというのは言い過ぎかもしれない。たしかに意図はある。しかし意図はすでにそのツイートに表してあるのだ。だから「書いてある以上の意図はない」というのが正確なのだろう。意図は表にあって裏にはない。そもそも私は企業の思惑や目的を伝えることが仕事なのだ。意図を伝えるのが仕事。私の場合、その意図も結局は「買ってくれ」なのが身も蓋もないのだが。
とにかく私にはもともと隠し事がない。未来を操る計画性もなければ、策略を練る頭脳もない私に、その発言に込められた真意などないし、壮大な計画も、隠されたフラグもない。ただ私は、誤解のないように、そして他意のないように、意図を140文字に収まるよう、テキストにしただけなのだ。だから私のツイートには、ツイート以上の意図はない。むしろツイート以上の意図があったなら、そのツイートは炎上のリスクを帯びた発言なのではとすら考えている。
そうでなくとも私たちは「それに込められた真意は?」とか「これはなにを表現したのでしょう?」といった質問を、たびたび見聞きしてきたと思う。よくあるご質問のページなら一番上に表示されそうな、インタビューの常套句だ。私ですらそうなのだから、日常的にインタビューを受ける俳優とかミュージシャンの人たちはうんざりしているのではないか。あるいは広くなにかを創作する人にとって、そこに込められた意図を本人の口から語らせることはなかなか残酷に思えるのだけど、どうなんだろう。
自分の意図をどうにか伝えようと、私たちはいろいろ工夫する。それは言葉の選び方であったり、タイミングであったり、声のトーンかもしれない。そこに表現を志す人はさらに労力を注ぐのだろう。時にはぐらかしたり、迂回したり、抽象化したり、あらゆる思考の先にできあがったものこそ、それ以上でもそれ以下でもなく、意図を表したものだ。だから「それに込められた意図は?」という、よくある質問にはけっこうな暴虐さが含まれていると、私は思う。
無人島に漂流癖のある女(たなかかずや 著)
「無人島に持っていくとしたら?」も、よくある質問の上位にくる質問だろう。私も質問したこともされたこともあると思う。ただしこの手の質問は、答えたあとにこそ、重きがある。その理由をあれこれ論ずる時間が解放されているからだ。あーでもないこーでもないと言い合う楽しさを引き出す、名インタビュアーが作った質問なのかもしれない。
そしてそういう優れた質問は、された方の中にじわじわと影響を与えるものだ。いまだに私は、無人島に持って行くとしたらの最適解が見つからないから、たまに考えてしまう。いまのところ私は「無人島に持って行くとしたら?」の質問には、無人島に行くしかなかった人生、と答えることにしている。できれば無人島に行かなくていい人生を送りたい。