ぼちぼちでんな、@SHARP_JP です。ビジネスで財を成したわけでもない私が断言するのも変だが、商売には「こっちの事情」というものがある。こっちとは、モノを売る側のことだ。買う側であるお客さんの事情とは別のところで、売る側にはそれを売る理由があり、売らねばならない理屈を抱えている。そもそも営利を目的とする企業だから、儲けるためにモノを売る行為そのものが「こっちの事情」の塊とも言えるのだが。
こっちの事情とは、例えばこうだ。同じ価格のモノでも原価はAの方が高いから、できるだけ儲けの大きいBの方を売れ。在庫がなくならないと新製品が作れないから積極的に旧製品を売れ。具体的な好みはないのだが我が社のブランドに合致したカラバリの方を売れ。利潤もイメージも大は小を兼ねるからできることなら大を売れ。そういった、買う側からしたら「知らんがな」という、あくまでこちら側の身勝手な事情である。
だから往々にして私の中で、推しと売りが異なることがある。おそらく世の広告も画面に映る推しと売りが異なることはよくあるし、逆もまたしばしばあるはずだ。広告なんてしょせん押し売りだろうと言われればそれまでだが、企業が胸を張って推す製品と、声を張って押す製品が異なる時、そこにはうっすらと後ろめたさが漂うのかもしれない。
私もひっきりなしにツイッター上で買い物相談を受けるから、ときどき推しと売りの乖離に引き裂かれることがある。話を聞く限り、こっちのお客さんにはこっちがいいけど、会社からはあっちを売れと言ってたはずだと、返事をする刹那、私もあっちとこっちどっちにすべきかと迷うことはある。そしてその場合はきまって、どっちをおすすめしようが、私の中にちょっとしたモヤモヤが残る。
『今日も我が家は』 第3話(チッチママ 著)
そのモヤモヤを、あらためて思い出させるマンガだった。こっちの事情を無邪気に優先させた少女は、目論見通りにいったものの、自分の中に苦い感情が芽生えることを知る。それはおそらく、自分の勝手な事情をお客さんに一方的に押しつけてしまったという、後ろめたさだ。
そしてその後ろめたさを判定する線引きは「自分を騙したかどうか」なのだろう。自分が嫌いなモノを好きだと偽って、人におすすめする。そのラインを踏み越えるとどうなるか、マンガの少女は身を以て知った。この少女(とその母親)が素晴らしいのは、こっちの事情を押し付けていたことをお客さんに伝えに行ったことだろう。おまけと称したコマに、モノを売るという営みに大切なことが書かれている。
振り返って私はどうなのか。大人の私にとって、世界は好きなモノと嫌いなモノ、そして好きでも嫌いでもないモノに溢れていることが当面の問題なのかもしれない。私は(それが仕事とはいえ)嫌いなモノをおすすめすることはない。そこに自負はある。しかし、好きでも嫌いでもないモノをどう扱うかには、しばし心の迷いがある。好きでも嫌いでもないモノを好きと称する行為。ハッシュタグでPRやADとつけられた発言に、みんなが一抹の嘘くささを感じ取る時代ではある。好きでも嫌いでもない自社製品に対するスタンスを、私はいまだ決めかねている。