お寒いことです、@SHARP_JP です。お体に気をつけてお過ごしですか。ふいにコタツが恋しくなる。恋しくなるというか、なんでいまウチにコタツがないのか、自分で自分に合理的な説明ができないことが不思議に思えてくる。とにかく私の家にはコタツがない。実家にもないし、大人になってから友人の家でコタツを見かけた記憶もない。
それが人間のおこなった乱獲とか外来種による淘汰といった、自身ではコントロールができない止むなしな事情であれ、絶滅した生物にはたいてい絶滅の理由がある。絶滅する理由があるから、私たちは絶滅を因果関係として理解する。だからコタツをついぞ見かけなくなった理由も、私はスラスラと語れる気がするのだが、どうもそうではない。私はコタツの絶滅を、合理的に説明できない。
冬のコタツは完璧な存在だ。あったかい。合法的にだらだらできる。食卓にもなるし、机にもなる。ひとりで過ごすこともできれば、4人までの来訪にも対応できる。仕事だってできるし、なんなら会議もできるだろう。猫や犬にも歓迎される。コタツはあまりにハイスペックな家電だと思う。そのマルチタスクっぷりはスマホに匹敵するのではないか。そんな完璧なコタツを、われわれはなぜ絶滅指定家電に追いやったのか。
もちろん絶滅とは言いすぎである。家にコタツが現役で鎮座している家もあるだろうし、新品のコタツを販売するお店もあるだろう。しかし私はもうひさしく、コタツに足を入れぬくぬくしていない。私の勤める家電メーカーのサイトにも、コタツの字はもう、どこにも見つからない。私にとってのコタツは、記憶の中にしか存在しない。
コタツ夢想曲(トロイメライ)(ma5ak42u 著)
いまやコタツには、ノスタルジーがある。あんなに効能豊かなコタツには、郷愁や思い出までもがもれなく付随するようになってしまった。それはこのマンガを読んだ人がみな、頷くところだと思う。私はいま、猛烈にコタツを追体験している。
それにしても、なぜコタツは見かけなくなったのか。テレビの衰退と日本の家庭からお茶の間が消えたことはセットに語られがちだが、コタツもそのあおりを受けたのだろうか。テレビに代わるスマホのように、代わりに小さなコタツが普及しなかったのはなぜなのだろうか。コタツはなぜ脚を延ばしてテーブルやデスクになる進化を選ばなかったのか。謎はつきない。そうやって考えているうちに冬が終わるのだが、いま私はコタツが恋しくて恋しくて床暖房に這いつくばっている。