そうです、私が変な感想です、@SHARP_JP です。自慢じゃないが、私には根拠がない。私が私である根拠もろくにないし、私の言うこと為すことにもいちいち根拠はない。ほとんどが勘だ。なんとなく、たぶん、おそらく、いままでの経験から鑑みて、こうだろうなと思う方に、私は多少の躊躇をもって踏み出す。
だいたい私の仕事は、私の痕跡が薄いのだ。インターネットに関わる仕事はとりわけそうだろう。これは私が考えたとか、あれは私が書いたと主張するために、いくら記名をしようが、いくら一貫性のあるアカウントで発信しようが、ほんとうにそれが私であるかどうかを確かめられるのは、私以外にない。なぜなら私がやったという根拠は、そこでやってみせないかぎり、私が費やした時間や記憶にしか存在しないのだ。
詰まるところ私の上司だって、私の仕事は私がやったかどうか、客観的な根拠など示しようがない。その報告メールだって、私が書いた根拠など、ほんとうはない。自転車で小さな交差点を「車なんて来ないだろう」と無邪気に走りぬけるように、上司は「君がそう言うならそうなんだろう」と私が書いたとされるメールを私が書いたものとして、見切り発車で読んでいるだけだ。
この文章だって、ほんとうは私が書いていないかもしれない。私が書いた根拠はかろうじてウンウン唸りながら納品したという、私の実感の中にしかない。「シャープさん」なんて自称したタイトルをつけながら、ほんとうは夜な夜な私の家族が執筆しているのかもしれないし、あるいは毎回、私がだれかにひょいひょいと発注をかけているだけかもしれない。ましてやAIが文章を書いてくれることを賞賛して受け入れつつある時代だ。そもそもこれが私の手によるものだと示す根拠なんて、今後さらになくなっていくのだろう。
もはや私がやったという根拠を示すには、それを実際にやっている過程を記録するくらいしか手段は残されていないのかもしれなくて、そう考えると発信がみんなどんどん映像や配信に偏重していくのも、無理ないことだよなあと思いながらこれを書いている。私が、書いている。信じてくれ。
生きる、おにぎり君(オムスビ 著)
だれもが身に覚えのある話だと思う。学究の徒でもないのに私たちは、なにかにつけて根拠を示す必要に迫られるようになってしまった。仕事でも、費用を使う前に効果を示せと言われているうちに、今度はエビデンスを提出せよと命じられる始末である。
だいたい「根拠は?」と言う側はずるいのだ。そもそも根拠とは、示すことがむずかしいのである。自分が自分である根拠すら希薄になりつつある時代に、根拠の参照は、出せという方が圧倒的に有利な出来試合だ。だからしんどい。いっそのこと私の社会的信用に基づいて、私の勘を数値化した根拠として算出するAIがあってほしい。そう思うほどに「根拠は?」はしんどい。
もちろん物事を判断することにおいて、エビデンスは大切だ。科学にとってもエビデンスは礎だろう。失敗が許されない世界で、仕事にエビデンスが重視されるのもわかる。しかしエビデンスは?と問われ続けると、うるせえと返したくなる時だって来る。そういう見えないストレスを、職場やSNSで、感じることはないだろうか。
「私が私であること」以外にエビデンスがないことがある。エビデンスも根拠も差し出す側は不利で過酷なのだ。もちろん私がそう断じる根拠はない。エビデンスなんてない。つまりそれって私の感想ですよね。