座ってします、@SHARP_JP です。私にも露悪的なところがあるから、たまには尾籠な話がしたい。びろうなはなし、だ。つまりトイレにまつわる話である。
とにかく私はトイレが近い。日常のすべての行動をほぼすべて、尿意を我慢しながら行っている。電話の応対をしていようが、会議に出ていようが、ツイッターをしていようが、だいたいいつもうっすら尿意を抱えている。なにかのセミナーにて壇上で講演中にも関わらず、あまりの尿意にステージを降りたこともある。その節はまことに申し訳ありませんでした。
原因は、私が常に飲んでいるせいだ。コーヒーやお茶や炭酸水を手放すことなく、いつもちびちび飲みながらなにかをするわけで、トイレが近くなるのも当たり前である。排出が追いつかないペースで水分を摂るのだから、そこに尿意の在庫を抱えるのは自明。自業自得の頻尿である。
とはいえ余程のことがないかぎり、大人はおしっこに行くことが憚られることはないから、私はしょっちゅう席をはずす。席をはずすことくらい、別に気に病むことでもない。ただしリモートの会議が増えた昨今、離席が妙に可視化されたので、トイレに立つことにいささか躊躇が増えた。あのためらいは、いちいち言うほどでもないけどわれわれの生活にやってきた新しくて小さな弊害ではないかと、私は尿意を我慢しながら思っている。
トイレでおじさんが教えてくれたこと(青木ぼんろ 著)
問題は便意だろう。尿意に比べれば、ためらいも切迫さも困難さも段違いである。このマンガに描かれている通り、便意(の緊急度)に歳は関係ない。老若男女に等しくピンチは訪れる。
そして問題はご承知の通り、緊急時に駆け込むトイレの少なさや混雑ぶりなのだ。つまりは電車や駅である。そう考えれば、通勤ラッシュの過酷さがあらためて思いやられる。在宅勤務や時差通勤は、その切迫さと過酷さが生じる可能性をゼロに近づけたわけで、ほんとうに歓迎すべきことなのだろう。
もちろんそれとは別に、老若男女に等しく訪れるピンチであればこそ、大人は子どもにトイレを譲る度量を厳しく問われるべきである。絶体絶命のピンチでこそ、大人はヒーローを問われる。大人は尾籠な時でもたいへんなのだ。
では失礼して、トイレに行きます。