じっとしてます、@SHARP_JPです。テレワークになり、毎日おなじ時間におなじ経路でおなじ場所へ行くということがなくなって、ヘタしたら1年半もの時が経ったことになる。幸か不幸か私の仕事はパソコンとスマホとWiFiがあればほとんど成立してしまうので、何不自由なく在宅勤務をしている。謳歌していると言ってもいい。


出張や移動の制約によって、どこかへ行って書くとかだれかと会って考えるといった、アイデアや企画の可能性はずいぶんと減ったはずだから、もちろんいいことづくめではない。とはいえテレワーク、プラマイで言えばやっぱりプラス、とは在宅勤務を続ける人の多くが同意してくれるのではないか。リモワ万歳。


ただし極めて個人的なことだが、毎日おなじ時間におなじ経路でおなじ場所へ行かなくなって、失われたものはたしかにある。通勤がなくなることで、定点観測ができなくなった。毎日同じものを付かず離れず眺め続けて、変わらない様あるいは微細な変化を密やかに楽しむことが、できなくなった。


いつもの道にいたりいなかったりする猫。自分が生まれる前から貼られていそうでなぜか剥がれないポスター。いつも季節を少し先取りするようにA4で1文字ずつ出力されたコンビニの宣伝文句、サドルのない自転車、落ち続ける軍手、凶暴な大自然と形容したくなる生え放題の軒先アロエ。いっこうに進捗しない道路工事。私はそれらをおなじ時間おなじ順に歩きながら一瞥し、見たものを歩きながら反芻する。


定点観測は私にとって、その変わり映えのなさと変わった時の発見を等価で楽しむ行為だ。不変に安心しつつ変化を待ち望むその矛盾した行動は、ビートやフレーズの繰り返しに身体を揺らし、これが永遠に続けばいいと思いながらサビやブレイクの予感に進む、あのダンスミュージックの楽しみに通じる。


地味を地味に味わいながら、地味に差異を見出す行為が私はなかなか好きだった。それが私の生活の中から失われたことだけは、いつも少し寂しく感じている。



1Pマンガ 第606話(まるいがんも 著)


だから3年以上、エレベーターホールにあり続けた(ほぼ)ゴミがなくなった時のフレッシュな驚きが、私には奥行きをもって感じられる。たぶん作者の人も「あること」を「あるなー」と定点観測で毎日感じ続けていたのだろう。ある日、変化するどころかなくなったわけだから、不在の在のインパクトはそうとうのものなのだ。ただしそれは極私的ゆえ、静かに静かに味わわれる。マンガの最後に、窓に向かってひとりで突っ立っているコマがいい。


往々にして繰り返しはつまらない行為やとるにたらない現象とされる。だけど私は繰り返しが好きだ。私にとって、同じものが同じようにあることはこの時間が続くという確証になりうるのだ。そしてその確証は、私はここにいてもよいという確信に変わる。その確信があってようやく、怠惰で臆病な私は未来の変化を待ち望むことができると地味に考えているのである。