秋ですね、@SHARP_JP です。ことあるごとに言及してきたが、私は日記を読むのが好きだ。自分は日記を書かないのに、他人の日記は読みたい。それもぜんぜん知らない人の日記を、まとまった分量で読みたいのだ。
だから必然的に私は、過去の人の日記を書物として読むことになる。書物にまとめられるくらいだから、文豪とか名作家と呼ばれる、流麗な文章に定評がある人が書いた日記を読む機会に恵まれる。ずいぶんと古いけど、名前は存じ上げている、小説はろくに読んだことがない作家が綴った日記、という本は案外とあるのだ。だから書店には日記文学というジャンルがあったりする。
で、さっきも私はそういう日記文学を読んでいた。作者の名前はなんとなく既視感があったし、戦後しばらくして芥川賞を受賞した小説家だということは予備知識として知っているから、それらに若干の高尚さを感じつつ、日々の穏やかな暮らしが美しい文で淡々と繰り返されるページに耽溺していた。そう、私はミニマルで穏やかなループに身を浸すために日記文学を愛好している節がある。
その時の私は、自分が生まれる前の過去を味わうような感覚で、日記を読み進めていた。自分の知らない遠い世界、とでもいうような時間感覚で淡々と読んでいたら、手から本を落としそうになるくらいびっくりしてしまった。淡々とした日記の中に、阪神・淡路大震災という、私にとって遠くない言葉が急にカットインしてきたのだ。
自分が生まれる前の遠い過去と思っていた世界が、ぜんぜん知ってる世界だった。なんならいま読んできた生活は、私が暮らしていた生活のとなりだったかもしれないのだ。自分の時間の尺度や、記憶と過去の間合い、絶対的に信用していた体内時計がまったくあてにならないと実感させられ、私は頭がクラクラしたのだった。
ムスメが腐ったので同人出戻りました(花霞ぼたん 著)
年を経れば経るほど体感時間は加速する、とはよく言われることだろう。同じ1年でも、最新の1年はいつも年齢を分母にした1年であるから、年々1年は小さくなっていく。10歳の少年の1年は1/10だし、50歳の中年の1年は1/50だ。5倍の開きがある。だれもが過去を振り返る時、その自分史の体感年表は物差しみたく等間隔に時間がプロットされないのは容易に想像できるだろう。私たちは過去をいとも恣意的に伸び縮みさせて生き延びていくのだ。
だからこのマンガのように、自分の娘が同じ腐の沼に入る様子を眺める時、母にいったいどんな感慨と時間の尺度がもたらされるのか、しばらく考え込んでしまった。沼に入れば時間はあっという間に過ぎ行くだろうし、子を育てれば我が子の成長もあっという間なのかもしれない。ずいぶん前とつい最近が混濁する感覚こそが、子育ての実感なのだろうか。それとも腐の歴史が連綿と受け継がれる様子に、悠久の沼を感じるのだろうか。腐の親とは、その両方を同時に感じるのだろうか。
それにしてもわれわれを取り巻くあらゆるジャンルが、実はもうけっこうな歴史があって驚かされることがある。われわれは迷子にならないためにも、あれは何年の出来事か、あっちは何歳の時の出会いだったか、たまに振り返っておくのも大切ではないか。


