おみくじはまだ引いていません、@SHARP_JP です。占いの需要に季節のアップダウンがあるのか知らないけど、新しい年がはじまるとそこかしこで自らの運勢の見通しを発表する人が現れるので、1月は占いが読まれるタイミングではあるのだろう。つまりは私の睦月のSNSは、友人や知人の、あるいは知らない人の、しいたけ占いやおみくじの結果が画像で滔々と流れてくる。
もちろん私もそういった、これからはじまる乙女座の一年はこういう傾向ですよといった類の記事は見る。穴が開くほど見る。だけどこっそり一人で見る。初詣のおみくじだって、見せるのはせいぜい家族だけだ。大凶ならおもしろがって写真をシェアするかもしれないけど、それ以外は決してアップすることはない。
理由は明白だ。恥ずかしいのだ。私が自分の運勢について書かれたものを読む時、私は私が読みたい箇所を血眼に探して読んでいる。私は、私がそうあってほしいことが書かれてないか、それのみを必死に追っている。やがて私は、私が言って欲しいことが書かれている箇所を発見して、密かに安心するのだ。
つまり私が占いを読む時、そこにはほぼ全裸の私がいる。だから私は、どうにも恥ずかしい。自分の運勢が書かれたものや、そこで解説される自身の見通しを他人に見せることは、まるで心の奥底の欲望を隠すことなく開陳するようで、ためらってしまうのである。
逆に考えれば、ふだん生きながら秘めがちな、欲にまみれる自分を含めて、あるいは自分を取り巻く環境に対する恨み言を含めて、まずは丸ごと肯定してくれることこそが、占いの効能のひとつなのだろう。私はそういう秘密な私を鎮めるために占いを読む。だけどそれは少し後ろめたい行為でもあるから、私はひとりでこっそり、占いを読むのだ。
【くそじみLife 12/18】恥死(karukoohino 著)
だから私は、このマンガの恥ずかしくて死にそうになった体験談が、身につまされる。他人がいない空間だからこそ、占いを存分に堪能しようとした自分は、むき出しの自分だ。そこを目撃されることほど、恥ずかしいこともないだろう。それが本来、社会的な仮面をつけて過ごす職場なら、なおさらのことである。
少なくとも私は、読みたいものを読むために占いを読む。金が欲しいとか褒められたいとかモテたいとか、身も蓋もない自身の欲望を「わかるわかる、今年はそのうちのいくつかは、うまくいくかもよ」と慰めてもらうために、私は占いや運勢が書かれたものを読む。その受け身な姿勢には、むき出しの自分どころか、むき出しの他力本願しかない。それはちょっとさすがに、人には見せられない私だ。
今年もよろしくお願いします。みなさまのむき出しの欲望に、いいことがありますように。私もそれなりにいろいろがんばりますので、私のむき出しの欲望にも、できればいくつか、棚ぼたがあってほしい。