風邪気味なんです、@SHARP_JP です。スターウォーズという名が冠された映画をひとつも観たことがない。ガンダムも同様だ。ちなみにディズニーランドも行ったことがない。これは私の好き嫌いの表明ではなくて、ただ気づいたらそうだった、という文字どおりの述懐である。その点は誤解しないでほしい。たぶんいま観れば、行けば、私は手のひらを返すように夢中になると思う。
行きがかり上というか生きがかり上というか、多くの人が観てきたであろうそれらを通ることなく、私は大人になってしまった。一般の成人男性という括りならば、観てない私はなかなかの少数派であろう。たしかに私はかつて、そういう少数派に属する自分をうっすら誇る部分があった。みんなが観ているモノを観ずに、他人が観ていないモノを観ることこそ、私の使命だと勝手に決めつけていた時期があった。見るを、聴くや行くや着るに置き換えても同じだ。若気の至りとか時代の空気という言い訳が許されるなら、似たような性向に思い当たる人もいると思う。
現在は決してそんなことはない。みんなが観ているから私は観ないという、子どもじみたあまのじゃくさは微塵もない。むしろ「みんなが観ている」という現象には必ず理由があり、その理由にはなにか大切な価値が含まれていると考えている。だからそれを体験しないという選択をわざわざ下すことほど、愚かなことはないだろうと思っている。
ただし、みんなが観ているモノはみんながそのよさを語るから、私はできるだけみんなが観ていないモノのよさを掘り起こすことに時間を費やしたい、という意志はいまだかすかに心の奥に生きている。だから限られた時間を前に決断を迫られる時、私はレビューが少ない方を観るし、ランキングに入っていない方を手に取ってしまう。そしてそういう性向に対して、インターネットやSNSはまことに相性がよかった。かくして、みんなが観ているモノを後回しにするという、私の少しやっかいな傾向は固定されていったのだ。
『真剣!侍ナース』 第19話「超人気バスケ漫画にハマったナース②」(梅元とうふ 著)
お察しのとおり、私はだれもが通ってきたあのバスケ漫画を読んだり観たりしたことがない。それについて私は、たびたび忸怩たる思いをしてきた。国民的と形容される作品は中学校や小学校の教科書と同じようなものではないか。周囲の人が当然の比喩として、その作品のセリフや名シーンを日常会話で言及する時、それにピンとこない私はいつも、義務教育を修了していないような後ろめたさを覚える。
もちろん、なんとなくはわかっているのだ。そのなんとなくも、おそらくそれほど外れていない確信はある。みんなが観てきた作品はみんなが語るからこそ、社会常識のように、自然とネタバレが刷り込まれるものだろう。だから表面的な受け答えはできていると思う。しかし自分に嘘はつけない。自分に知ったかぶりをすることは不可能だから、私はいつもあいまいな顔で立ち尽くしてしまう。
観ればいいじゃないか。読めばいいじゃないか。それで解決するのはわかっている。わかってはいるのだけど、それを観てこなかった代わりに膨大な他を観てきた私が、いつもひょっこり顔を出すのだ。そして、その私といまの私が地続きである実感が自身の文脈となって、無理して見るという行為にいつもためらいをもたらす。なんともやっかいな私であるのは間違いない。しかし観るべきものを観るべき時に観てきた私が現在の私なのだろう。観るべき時、聴くべき時、読むべき時はいつかやってくる。そう思って私は、出会うべくして出会った順に、観たり聴いたり読んだりしている。