自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです、@SHARP_JP です。大人になると、生きてるだけで罪深いと思うことが増える。買った食べ物を食べずに捨てる時など、まさにそうだ。私はこれまでいったいいくつのアボカドを、食べずに捨ててきたか。私は生きれば生きるほど、アボカドの原罪を重ねる。私が生きるそばから、アボカドはキッチンで熟し、食べられる機会を逸していく。なんと罪深い人間であろうか。
全面的に許されるわけではないが、食べ切れないの方がまだマシだろう。調理して食べて多すぎたならまだしも、ただ食材の所在地を冷蔵庫を経由してゴミ箱へ移動させるだけはあんまりだ。人間の口や手すら介さずに無へと帰す食材を見るたび、私はいたたまれない気持ちになる。調理せずに捨てるという事態は、できるだけ回避したいものだ。
一方でそういう心がけは、だんだん自分の料理を「なにが食べたいか」から「なにを使わなければいけないか」にシフトさせていく。冷蔵庫や冷凍庫が気軽に大型化する現在、消費期限にレシピを決められる人はけっこう多いと思う。もちろん悪いことではない。しかし少しばかり、味気ない気持ちになる時がある。ただでさえ家事とタスクの残り時間に追い立てられがちな料理が、消費期限によってさらに脅迫の度合いが増すようでちょっとしんどい。共感してくれる人はいるだろうか。
パンの消費期限が切れた(雨森 睡 著)
開き直るつもりはないけど、われわれはどうしても消費期限切れを生じさせてしまう。いくら気をつけても、期せずして期限が切れた、忘れ物を生活の中で発見する。食パンなんて、その最たるものだろう。
消費期限切れに直面した私たちは岐路に立たされる。行くか、行かないかだ。われわれはそれぞれ、経験則に基づいた「行ける」ラインを持っている。食材ごとに何日経過までを許容するか、一家言があるだろう。このマンガでは、食パンはカビる未満は行く、というラインが提示されている。私はちょっと、同意できない。こわい。
それにしても、期限切れの食材をエイヤと行く、あの時の覚悟は嫌いではない。食材を無駄にはせぬという責任感と、未来の自分の無事を天秤にかけ、一歩を踏み出す感覚。あれはなにかに似ていると思っていたのだが、いまわかった。ツイッターだ。少々踏み込んだツイートを書き、投稿ボタンを押す時の感覚に似ている。私は、自分なりの責任感と自分の未来への信託の間をゆらゆらしながら、私の中で覚悟が貯まっていく時間をじっと待つ。そういう時たしかに、エイヤと食べてお腹を下した記憶が過ぎることがある。みなさんも時節柄、くれぐれもお気をつけください。