人格に多様性があります、@SHARP_JP です。人間にはいろいろな顔があるし、それでいいと思っている。私がよく知る友人も、私が知っているのは、その友人が持つ側面のうちの、たかだかひとつやふたつだ。友人知人、あるいは恋人や家族の、私が知らない側面も見てみたいという欲望がないわけではないけど、無理して見ようとすることもないし、見る必要もないと思っている。
だいたい自分がさまざまな顔を持っていることを、その顔を生活の中で適宜使い分けていることを、自分だけはよくわかっているのだ。とりわけ私など、行きがかり上とはいえ、こういうコラムで自分の考えめいたことを書きつけたり、企業の看板が掲げられた場所であえて私を主語に、問わず語りをしている。その是非は脇に置いても、自分の中では公に私が入り込み、私に公が入り混じって、すでに自分の側面が何個あって、それぞれがどんな輪郭を持っているのか、うまく把握できなくなってしまった。
人間にはいろんな顔がある。しかも、その顔が阿修羅のように見る方向で切り替わるのではなく、複数の顔のブレンド具合が時と場所によって変わるのだから、人間のすべての顔を知ることなど、土台われわれには不可能なのかもしれない。私たちはたとえどんなに親しい間柄であろうとも、他人の全貌など知りえないのだろう。
一方で、われわれは「あなたにそんな側面があるなんて知りたくなかった」という経験をしばしばする。それが羨望や尊敬を集める有名人ならゴシップになるし、好意を寄せる人なら幻滅になる。人格の多様性と演出が表裏一体となったSNSが隆盛を誇るいま、SNS上の発信を見ることで「知りたくなかった」を知る確率もまた、飛躍的に上昇したはずだろう。
人間にはいろんな顔がある。それを他者がすべて知る必要はないし、すべて知ることはたぶんできない。だから私たちは、見える顔だけを見ればいいのだけど、それは「見たいように見る」行為にもたやすく接続する。見たいように見られるなら、自分の顔を制御する余地もない。見る側であり見られる側でもあるわれわれは、見たいように見ればいいじゃないかと思いつつ、見たいように見られるだけではつまらないと渇望するのかもしれない。なかなか難儀な話ではある。
AIと同棲カップル(カゲワサビ 著)
とはいえ、見える顔だけを見ていても、見たいように見ると言ってられないような、その人の別の側面を目にしてしまうことはある。恋愛相手が飲食店の従業員に横柄な態度を取るのを見て幻滅してしまった、という類の話だ。まさに「あなたにそんな側面があるなんて知りたくなかった」である。人間が見せるギャップは、たいていはその人の評価にいい作用を及ぼすものだけど、そうもいかないことも確かにある。
私のもっとも「あなたにそんな側面があるなんて知りたくなかった」は、動物を邪険に扱うところを見てしまった時だ。どんな側面を持とうが、たいていは「そうか」とつぶやく私でも、動物を邪険に扱う人だけはそれ以上、仲が深まるとは思えないし、深めようとも思わない。
このマンガで描かれる「あなたにそんな側面があるなんて知りたくなかった」は、チャットGPTに罵倒の言葉をかける彼女の姿だ。いかにもこれからの時代、ありえそうなシーンである。
そしてこじつけかもしれないけど私は、お店の従業員に横柄な態度を取る人、動物を邪険に扱う人、チャットGPTに罵倒する人には、どこか共通点があるように思える。うまく言えないけど、自分と関わりのないモノには一切の敬意がない、という点だ。人間以外に興味がない、と言い換えてもいい。
たぶん私には、お互いが自分の中に飼う自分の多様性に、寛容でいられるボーダーラインがある。それがどうやら、ここらへんなのだろう。まるで自分以外に人間は存在しないようにふるまったり、自分以外には生命も尊厳もないように生きる側面をその人の中に見てしまうと、私は心の底から「知りたくなかった」と感じ、もうそれ以上はあなたについて、なにも知りたくないと思ってしまうのだ。