広義の広告屋、@SHARP_JP です。人によっては遥か昔の話になってしまうかもしれないけど、みんながSNSとスマホを使いはじめた頃、たくさん広告にお金を使ってきた企業はこれから広告を打つ必要がなくなるのではないか、と言われた時期があった。
例えばこういう話だ。これからは誰もがなんらかのSNSアカウントを持つのだから、わが社の社員も例外ではない。社員はすべからくSNSをやり、それぞれのSNSで我が社のアピールをするはずで、放っておいても口コミや宣伝が自然発生する。広告に膨大な金を費やす企業は規模も大きい会社ゆえ、社員数も千や万の単位となるはずだ。それらすべてが広告塔となれば、その影響は計りしれない。社員のSNSの総和はメディアを凌駕し、規模と拡散へ投じてきた広告予算はいずれ不要になるであろう、という予測である。
もちろん極論である。その予想からそうとうの時間が経過し、実際はまったくそうならなかった。みなさんがご存知の通りである。現実はあらゆるSNSに広告が満ち溢れ、私たちは無意識レベルの注意と刹那な自分の時間を広告主に買われ、引き換えにうんざりや not for meを溜め込んでいく。事実、日本の広告費の総量は減っていない。なんのことはない。従来の広告へ投じていた金が別の広告へ、費やされる場所をスライドしただけだった。
あげく私たちは、金を払えば広告を見ないですむという選択肢さえ突きつけられるようになった。広告を見ないためにお金を払うような人こそ、自分が必要なモノやサービスには進んでお金を使ってくれる優良顧客ではないかと、広告に関わってきた私なんかは思うのだが、どうしてこうなったと考えるほどに、何が本末でどこが転倒したのかすら、よくわからなくなってくる。
それにしても、社員がみなSNSをやれば自社の広告は不要になるとは、あまりに楽観的な考えだったと思う。夢と言ってもいいのではないか。とりわけ楽観的だと感じるのは、社員が自主的に自社の広告塔になると考えたことだろう。社員の忠誠心とか仕事のモチベーションを過大に見積もる心象を、いまだに私は理解できない。そもそも自らの信用を築くことなく、周囲の友人知人に自分が勤める会社をアピールする唐突さや無粋さ。そこに理解がいたらないことに、いまも私は暗澹たる気持ちになる。だいたい自分の働く会社を心底愛し、誇り高く働く人がいかに希少な存在であるか、労働への呪詛に満ちたSNSを見ればすぐわかりそうなものだろうに。
広告(カゲワサビ 著)
結局のところ、広告は減らない。あの手この手で品を変え、流行と景気で場所を変え、広告は私たちの視界と脳を遮り続ける。経済行為の準主役として、それを必要とする人にとっては出会い頭に有益で、そうでない人にとっては邪魔者のまま、これからも広告は私たちの生活に存在しつづけるのだろう。
ところで。あらためて申し上げることもないが、私は自分の勤める会社のSNSアカウントを運用している。そこでお客さんやお客さんでない人と、あるいはいずれお客さんになるかもしれない人と、おもに言葉を通して膨大なコミュニケーションを行なっている。その量は毎日のことだから、そうとうのものだ。会社のアカウントである以上、私が行なっていることは結局のところ、広義の広告だ。私は仕事として、広告を行なっている。そしてその仕事を、長らく続けている。
つまり私が言いたいのは、私はある意味、広告塔なのではないか。私はこのマンガの彼のように、おでこに広告をつけた広告塔なのではないか。ならば私は、会社から1日3万円くらいもらってもいいのではないかということを、声を大にして言いたいのだ。給料プラス広告料である。私は私の働く会社を実家とまでは申しませんが、なんだかんだで太い会社だと存じております。ここはひとつ、どうかよろしくご検討ください。