マスク売ってます、@SHARP_JP です。先日友人ふたりが待つテーブルへ、ふらりと飲みに行った。その前は出張の仕事終わりに、その相手とふらりと飲みに行った。どちらもすごく楽しかった。飲みに行くという行為があまりに久しぶりだったことはもちろん、あらかじめカレンダーに書きこまない、ふらりとしか形容しようのない行動が新鮮で、なんだか自分が酒を飲めるようになった頃へ退行した心持ちがした。
あまりに楽しかったので、次は「ひとりでふらりとだな」と考え出した。そのとたん、いったいひとりでどこに行けばいいのか、まったく思い浮かばない自分に愕然とした。ひとりでふらりと入れる店の存在を、私は忘れてしまったのだ。マスクして家で仕事をするうちに、半径数キロの方々にピンが打たれた、私は私に親しい地図を失くしてしまったようだった。
この3年で失われたモノゴトはたくさんあるけど、「いきつけ」もそのひとつではないか。かつて、それぞれがそれぞれの生活圏で持っていた、よく行く場所。失われた「いきつけ」とは、よく行くお店がなくなってしまったという残酷な事実もあれば、私のようにいきつけを忘れてしまったり、いきつけというふるまいがどんな風だったか、うまく思い出せなくなってしまった人もいるはずだ。
幸い、と言っていいのかわからないが、ほかの失われたモノゴトとちがって、いきつけは再構築が可能だ。いきつけはもう一度作れる。私たちはそれを望むなら、いつでもいきつけを作り直すことができるのだ。予断は許されないけれど、少し風通しがよくなった今、はじめての土地に引っ越してきたような、心許なさと自由がないまぜになった気分を、私は思い出している。
いきつけの定食屋さんの店員さんの話(あおいし 著)
いきつけを失ったり、いきつけを忘れてしまった人は、このマンガを読むとよい。グルメとかステイタスといった文脈とは別の、いきつけの魅力を思い出すことができる。私たちは、これといった理由もなく、いつも行くお店があったはずなのだ。いつも昼めしを食べる店。いつもコーヒーを飲む店。いつも寄って帰る本屋や洋服屋やバー。そういういきつけを取り戻す。あるいは、いきつけをもう一度作り直してみる。それくらいは、そろそろやってもいいのではないか。
いきつけのお店に自分を覚えられてしまった時の、あの気恥ずかしさすらなんだか懐かしく感じる今こそ、ひとりでふらりの再開にうってつけだと思う。さあ次は、われわれのターンだ。いきつけを再構築するターンだ。