振り返ることもたまにある、@SHARP_JP です。先日知人を介し、とある大学の新入生に、自分の仕事について話をする機会をもらった。この仕事も10年ほど続けているので、人前で自分のやってきたことをしゃあしゃあと語る場所も増えてくる。
場数が増えると自分の話にも型のようなものができてくるから、その構成をベースに場所や持ち時間に応じてちょこちょこカスタマイズすればよくなる。場数を踏めば踏むほど、自分の話をする労力は減っていくのだ。しかも私なんかが自分の話をしてよいと許される場所なんて、同業者や関連する業界に限られるから、私の話も私が語りかける人も、必然と似通っていく。
だから今回も軽い気持ちで準備をはじめたのだが、はたと私は立ち尽くしてしまった。私の話を聞く人は、20歳にも満たない人たちである。20歳どころか、ついさいきん急に社会から成人認定された18歳に向かって、私は話をしなければいけない。自己紹介を兼ねた、私の仕事10年の振り返りでさえ、「いやーいろいろありましたね」が通用しないのだ。なにせ、それなりの背景や経緯があって私がこの仕事をはじめた時、彼ら彼女らは小学校低学年だったのである。いろいろあった10年を、例え話としてでさえ、共有することなどできやしない。
そして私は、自分の型をぜんぶ捨て、一から話を組み立てることにした。それはなかなかの労力だったし、その労力が報われたかどうかはわからない。しかし私にとって、振り返った時の10年という尺度や実感を強烈に見つめ直す機会にはなった。
10年は、平等な時間の単位ではない。当たり前のことだけど、それぞれの10年はその人の年齢を分母にした10の分数なのだ。40歳の人なら1/4だし、30歳の10年は1/3の質量を持つ。80歳の人の直近10年は人生の1/8を占める。20歳なら半生だ。ましてや10代の10年なんて、振り返るどころか現在進行形の人生だろう。こちらが勝手に振り返って総括できる時間ではないと思う。
縦スクマンガのトリセツ(コミチ 著)
こんなことはもうあちこちで擦られまくった言説だけど、いま10年前を振り返った時に、世代間の違いを浮き彫りにする象徴がスマホだろう。スマホを当たり前のように使い出した10年と、当たり前に使うモノがスマホだった10年では、同じ時間でも見える景色はまったくちがうはずだ。だんだんスマホになった人が思い出す10年前と、はじめからスマホだった人が思い出す10年前は、同じ西暦でもはたして重なるところがあるのだろうか。スマホの登場に左右された私の仕事も、両側から見ればまったく違って見える景色の中にあるのだ。
マンガを摂取してきた景色も、スマホを挟んでまったく異なるのかもしれない。このコラムを掲載するコミチという場所は、これからのマンガ家を支援するプラットフォームという側面もあるから、今回のように「当たり前にスマホで読まれるマンガ」を指南している。言うまでもないことだが、だんだんスマホを使うようになった人にとって、縦スクあるいは縦スクロールというマンガ表現は10年前なら目にすることすらなかったはずである。
こちらもまた言うまでもないことだけど、10年前を振り返って現在を予想するなんてとうてい不可能なくらい、時代はガラリと変化する。私たちは、10年前の私たちが想像すらしなかった私たちになるような速度で、現在を生きている。だけどいつだって、私たちが劇的と修飾したくなる変化を所与として生きる世代が、連綿と続くのだ。
私たちはつい、予想もできない未来をうまく的中させた人が世の成功を手にするように解釈してしまう。実際そういう例もある。しかし新しい創作とか、安定した表現とか、うまく言えないけれど穏やかで着実な成功は、予想もされなかった変化を当たり前に享受する人から生まれるのではないか。だからこれからみんなが親しむ新しいマンガも、そうやって出てくるように思う。
そう考えると、だんだんスマホを使うようになった私は、新しさを生み出す側ではない。だからせめて、ガラリと現れた変化もどこかで連綿とつながっているのだと証明するために、いつでもすぐに10年前を取り出して説明できる人でいたい。いつまでも新しい表現を享受したい私は、ささやかながらそう願っている。